写真家列伝 | Photographer biography

第4回大山行男

富士にとりつかれ、追いかけ、
富士に生かされる人生。

一つのことを見つけ、生涯の目標とできた人は、幸福だ。経済的社会的に成功するしないは結果にすぎない。
───そんなわかりきったことが、大山行男(おおやまゆきお)の写真を前にすると純粋な真実として、心に沁みてくる。

最もメジャーな、言い換えればありふれた富士山を撮影対象に選ぶのは、賢明な選択だろうかという、ぶしつけな質問に「富士山は美しい。ただそれだけなんです。これしかない、と思ってしまったんですね」

だから、売れる富士山の写真を撮ろうとしたことは一度もない。
「空は青く、富士は雪をかぶり、手前には美しい花が咲く。そういう写真を撮ってくれと何度も言われました。お前の写真は暗いと(笑)。でもぼくは撮らなかった」

お金が手に入れば、次に名誉がほしくなり、心に隙が生まれる。
「ちゃんとした仕事をしていれば、お金はあとからついてくる。わかっている人は必ずいるんだ、と尊敬する方に教えられたのを守っただけです。そのとおりでした」

山梨県旧上九一色村。富士のそばで暮らしたくて自ら建てたというドームハウスには、一方向だけ大きな窓が取り付けられている。

大山に見せてもらった国土地理院の地図には無数のチェックの跡があった。毎日の日の出と、それを見ることのできる場所が記されていた。だが撮影の詳細記録はとらない。
「出会いが強烈ですから、忘れません。ところが欲を出して、これもいいんじゃないかと思って撮ったのはすっかり忘れてます(笑)」

感動との出会いを求めて、大山は朝も昼も夕方も夜も、晴れた日も曇りの日も雨の日も、富士山を巡る。どこへでも持っていける8×10カメラがほしくて自作した。そんな大型カメラで空撮までするのは大山くらいなものである。

冬の澄んだ空気のなか、屹立する富士を撮るために、標高3000m超の南アルプスを単独行し、雪洞を掘って命を繋ぐことも厭わない。

荒行のような撮影行動とは対照的に、終始柔和な表情で語る大山。富士を眺める自宅の横では、奥様がニコニコと夫を見つめていた。


休日、クルマで行ける富士山撮影ポイントガイド

大山行男は朝霧高原など旧上九一色村周辺を中心に、西側か、北寄りから見た富士山を撮影することが多い。なぜなら「駿河湾方面から眺める富士山はきれいすぎる」から。

昔から多くの文化人も富士山を愛してきた。例えば、写真家・岡田紅陽は忍野や旧上九一色村からの富士山の美しさを撮影し、高浜虚子は山中湖からの眺めを好んだという。「富士には月見草がよく似合う」という言葉を残した太宰治は、御坂峠の天下茶屋で2か月間過ごしている。いずれも富士山を間近に眺められる場所だ。山を仰ぎ見てこそ、その威容を体で感じることができるからだろう。

国道138号、139号、469号線を走れば、富士山を一周できる(御坂峠は137号線)。この周回ルートのなかに撮影ポイントは数多くある。左の地図に印したポイントを参考にしながら、最高の撮影ポイントを探してほしい



PROFILE

■大山行男(おおやま ゆきお)
1952年生まれ。
1972年、日本各地を放浪しながら、独学で蒸気機関車の撮影を主とした写真家活動を始める。1976年ある富士山の写真集との出逢いから、富士山の撮影に打ち込み始める。1984年に初の個展『富士千年』。1985年に山梨県へ転居。
1990年には現・富士河口湖町に自らの手で家を立て、撮影拠点とする。その作風は、まるで修験者のごとく山に籠もり苦行するなかで富士山と対話し、自己を見つめようとする独特なもの。
「風景写真」の枠におさまらない、富士山と同じ唯一無二の世界を築いている。