第6回永坂嘉光
ひとくちに写真家といっても、さまざまなタイプの人がいる。風景、ファッション、グラビア、時流に合わせてテーマを次々に変えて行く人。そして、生まれた土地との縁をずっと守り、その土地の写真を撮り続けている人たち……。高野山に生まれ、育った永坂嘉光(ながさかよしみつ)氏もそんな土地、地域=高野山との関わりのなかで撮り続けている写真家のひとり。毎日カメラを抱えて山へ入るその姿は、あたかも高野山で修行する僧侶のようである、と人はいう。
永坂は1970年頃から高野山の撮影を始め、以来、35年以上にわたって撮り続けている。その作品群の中には1973年元旦に、弁天岳の中腹から撮影された『雲流の朝 高野山根本大塔』のように、今では見ることのできなくなってしまった景観をはじめ、「高野山に住む人々でも見た人は少ないといわれる景色」も数多い。さらに、歴史を秘めた堂塔や雄大な自然がみせる四季折々の風景美だけではなく、全山に漂う“霊気”といった目には見えない気配までもとらえている、と言われているのが永坂作品の特筆すべき点である。
1990年頃からは吉野をはじめとして北は恐山、岩木山、南は英彦山、桜島まで全国の山岳霊場を巡っている。実に、移動距離10万キロ、取材期間は10数年にもおよび、高野山や山岳宗教に関する作品集はいまや30冊を数える。
高野山を撮り続ける永坂にとって、この山を開き密教を広めた弘法大師空海に惹かれるのは自然の成り行きであったといえるだろう。1980年代前半には、空海の足跡を辿ることを新たなテーマとして撮影を開始。四国、奈良そして中国と、ゆかりの地を訪ねて撮影。空海の思想や業績、その生涯をも写真のなかに再構築し、『弘法大師の足跡』、『空海の歩いた道』などの作品にまとめている。
最近では世界遺産に登録された紀伊山地の霊場と大峯奥駈道を修験者たちに同行して撮影し、2006年には写真集『天界の道』を上梓。この作品について吉野・金峯山寺の執行長が“永坂氏の写真はその情景の奥に聖なるものの存在と、この地に生きた人々の営みを、ものの見事に感じさせる”と評している。
「写真は被写体の本質を見極めるのが、醍醐味であると思う」とかねて永坂は語っている。さらに、「自然のなかに分け入り、溶け込み、その息吹を体感しないと写真は撮れない」とも永坂は言う。被写体の本質をさぐるためには、わざと写真の粒子を荒くするというようなテクニックに走るのではなく、ただただ長い時間、月日をかけて撮影するしかない、と考えているのだ。
ちなみに、永坂の作品のほとんどが、銀塩フィルムによる撮影である。決してデジタルカメラを使わないわけではないが、「デジタル写真時代が、写真の原点を隠しているのだ」と考えており、「世はデジタル表現時代。風景作家等は時代遅れとする風潮である」世間の流れに対し「人は、デジタルでないはずだ」と異を唱えている。
同じ被写体を撮影し、プリントを比較した場合「デジタルは、ピントは甘く、色がやはりインクの色でどぎつい。銀塩はピントもしっかり、色も出ている」と感じているのが、銀塩フィルムにこだわる大きな理由。
今でも大きなカメラを担いで、高野山というひとつの被写体を長年にわたって撮り続けているのは、自らの写真観を実際に体現していることにほかならない。その姿はまるで修験者が護摩を焚き、川や滝の水に身を浸して心身を清め、大自然のなかで祈り、そのエネルギーを自分のものとする行を重ねる姿にも似ている。
今や永坂は写真の修験者ともいえる存在となっているのだ。
とはいえ、永坂は決して“古い”人間ではない。その証拠に、ネット上で流行の「ブログ」を公開して1年になる。大学教授というもうひとつの顔を持ち、若者たちと交流する機会が多いからかもしれないが、時には若者言葉や流行のギャグなども文章中に交えながら、独特なテンポで綴られている。息子にデジタルカメラを買ってあげようとした際「デジタルカメラは嫌い」と言われ「救われた気がした」話など、そこには、作品から感じられるものとはひと味違った永坂の人柄をうかがい知ることができ、非常に興味深い。永坂の作品と出会ってファンになった方にも、ぜひ一読することをおすすめしたい。
■永坂嘉光(ながさか よしみつ)
1948年生まれ。
大阪芸術大学美術学科に入学、写真学科専攻。大学卒業後、岩宮武二に師事するかたわら、大阪芸術大学に勤務。写真学科教授。1980年、およそ10年間の高野山を撮りためた成果を写真集『高野山』で発表。その後も高野山の撮影を続ける一方、日本中に密教を広めた空海に興味を抱き足跡を追って日本各地や中国へ訪問し撮影。1984年にその成果を写真集『弘法大師の足跡』にまとめる。一連の仕事は日本のみならず、米国でも高い評価を受けている。